เข้าสู่ระบบ指定された場所は、人気のない湾岸エリアだった。夜の海風が冷たい。波が岸壁に打ち寄せる音だけが、暗闇の中に響いている。街灯はまばらで、人の気配もない。まるで、最初から人目につかないように選ばれた場所だった。優は黒いボストンバッグを握りしめていた。中には身代金。その重さが、異様なほど重く感じる。金額の問題ではない。このバッグ一つが、沙羅の命を握っているように思えた。――待っていろ、沙羅。――必ず助ける。そう自分に言い聞かせる。だが、胸の奥では別の声がしていた。――もし、間に合わなかったら?あのとき、沙羅を連れ去られるのを防げなかった。その罪悪感が、今も優の胸を締め付けていた。到着すると、古びた電柱に紙が貼られているのが目に入った。――金を置いて立ち去れば、雪城沙羅を解放する――そして、手書きの地図。沙羅の居場所。警察も事務所スタッフも、優を止めた。「罠です!」「単独行動は危険すぎる!」だが優は聞かなかった。怖くないわけではない。むしろ怖かった。それでも、ここで自分が行かなければ、沙羅がどうなるのか分からない。優はバッグを置いた。そして、地図の場所へ向かって走り出した。嫌な予感が胸を締め付ける。遅かったらどうする。間に合わなかったら。最悪の想像が、頭をよぎる。――死んでいたら?その考えを振り払うように、優は走った。倉庫が見えた。錆びたシャッター。半開きの扉。風に揺れる扉の音が、不気味なほど大きく響いている。優は息を切らしながら、中へ飛び込んだ。そして――息を呑んだ。床に転がされていた。両手両足を縛られ。目隠しをされ。引きずられたのか、服は破れ、土にまみれている。顔も汚れ、あまりにも痛々しい。「……沙羅!!」優は駆け寄った。震える手で縄を解く。目隠しを外す。「もう大丈夫だ」その一言を聞いた瞬間だった。沙羅の瞳から、大粒の涙が溢れた。いつもは誰よりも気丈で、強く、隙を見せない女。その沙羅が――崩れた。「……優……」縋り付くように抱きついてくる。指が震えている。優は何も言わず、ただ支えた。その身体の震えを感じながら、優の胸にも痛みが走った。――怖かったんだ。――俺がもっと早く来ていれば。そんな後悔が、また胸の奥から込み上げる。やがて人が駆け付けても、
「十年前から現在に至るまで。雪城沙羅のすべてを洗い出せ」低く落ちた藤崎優の命令に、東堂は一切の躊躇なく頷いた。「承知しました」それが、どれほど骨の折れる作業になるかは分かっている。雪城沙羅。トップ女優。完璧な経歴。非の打ち所のない成功譚。華やかな受賞歴。数々の主演作。――表向きは―――。だが、東堂には分かっていた。人間の過去は、表に出ているものだけではない。むしろ、完璧すぎる経歴の裏側には、何かが隠されていることがある。東堂はまず、歴代のマネージャーに当たった。だが、多くは口が重かった。「……特に問題のある方ではありませんでしたよ」「プロ意識の高い女優です」「結果を出す人でしたから」模範解答のような言葉ばかりが並ぶ。だが東堂は知っている。本当に“何もない人間”など、この世界には存在しない。まして、十年以上もの間、頂点に立ち続けた人間ならなおさらだ。東堂は相手の表情を見ながら、黙ってメモを取った。質問を終えても、相手の指が落ち着きなく動いている。視線が妙に泳ぐ。言葉と表情が一致していない。――何かある。そう確信した。沈黙は、美徳ではない。沈黙は、隠蔽だ。次に当たったのは、かつて同じ舞台に立っていた女優たちだった。だが、ここでも反応は二極化した。怯えたように話を拒む者。電話を切る者。「もう関わりたくない」と震える声で言う者。そして――金を受け取ったあと、堰を切ったように語り始める者。「私は、主役を降ろされたんです!!」ある元女優は、乾いた笑いを漏らした。その笑いの奥に、何年経っても消えない悔しさが滲んでいた。「理由は“方向性の違い”。でもね、本当は違う。撮影の一週間前に突然よ。代役が誰だったと思う?」東堂は答えを予測していた。「……雪城沙羅ですか」女は頷いた。その瞬間、押し殺していた感情が、堰を切ったように溢れた。「そうよ」声が震える。「私、何年もその役のために準備していたの。台本を何度も読み返して、体重も落として、演技も作り込んで……やっと掴んだ役だった」一度、唇を噛む。「それなのに、一週間前よ」目に涙が浮かぶ。「全部、なくなった」東堂は黙って聞いていた。女は涙を拭いながら笑った。「悔しかった。本当に悔しかった。私より沙羅のほうが才能があったって言われたら、ま
撮影スタジオの空気は、張り詰めていた。体調も戻りつつあり、ひかるは再び、他のドラマの撮影現場に立っていた。久しぶりの現場だった。大型照明の熱。スタッフたちの慌ただしい足音。台本をめくる乾いた音。遠くで聞こえる機材の移動音。そのすべてが、以前と何も変わらない。変わってしまったのは、自分のほうだった。ひかるは静かに立っていた。衣装は、役柄に合わせた淡いグレーのドレス。派手さはない。けれど、ひかるが身につけるだけで、それは舞台衣装のように見えた。「本番いきます!」監督の声が響いた。カメラが回る。ひかるはゆっくり息を吸った。怖い。ほんの一瞬、胸の奥でそう思った。事故以来、車の音を聞くだけで身体が強張ることがある。急に背後から近づいてくる気配に、心臓が跳ねることもある。そして今も。大勢の人間に囲まれているはずなのに、どこかに危険が潜んでいるような気がしてならない。けれど――そんなものを、誰にも見せるわけにはいかなかった。私は女優だ。カメラの前で怯えている姿など、誰にも見せない。怖いなら、怖いまま演じればいい。ひかるは胸の奥で震える感情を、静かに押し込めた。相手役の俳優が台詞を言い終える。ひかるはゆっくりと顔を上げた。その瞬間――スタジオの空気が変わった。悲しみ。怒り。諦め。そして、かすかな希望。複雑に絡み合う感情を、ひかるはただ“目”だけで表現する。誰も息をしない。ひかる自身も、演じている間だけは事故のことを忘れていた。違う。忘れたのではない。恐怖さえも、役の感情に変えていた。「……カット!!」監督が立ち上がった。「いい……いいよ久遠さん!今の最高だ!」スタッフの間から小さなどよめきが起きる。ひかるは微かに息を吐いた。戻ってこられた。その実感が、胸の奥に小さな灯りをともした。――私はまだ、ここに立てる。そう思った、そのときだった。背中に、冷たいものを感じた。ぞくり。身体が勝手に反応する。――見られている。事故のときにも感じた、あの視線。ひかるは反射的に振り返った。だが、そこには機材を動かすスタッフしかいない。気のせい……?いや、違う。女優として培ってきた本能が告げている。あの夜と同じ視線だ。ひかるは何でもないような顔を作りながら、周囲を見渡した。する
都内高級マンションの最上階。床まで届く大きなガラス窓の前に、雪城沙羅は静かに立っていた。眼下には、宝石を散りばめたような夜景が広がっている。無数の光が瞬き、車のヘッドライトが流れるたび、まるで都市そのものが呼吸しているかのようだった。だが、彼女はそれを見ていない。視線は、手元のタブレットに落ちていた。そこに映し出されているのは、撮影現場の写真。中心にいるのは――久遠ひかる。スタッフに囲まれ、監督に称賛され、すべての光を一身に浴びて立っている女。誰もが自然と彼女の方へ身体を向け、言葉を待ち、笑顔を向けている。まるで、そこだけ空気が違う。“主役の空気”。沙羅の指先が、わずかに震えた。「どうして……この子なの?」低い声が、静まり返った部屋に落ちる。その声は驚くほど感情を抑えていた。けれど、その奥底では、何かが軋み、崩れ、そして黒く燃えていた。どうして―――。なぜ、またこの女なの?一度消えたはずだった。自分の前からいなくなったはずだった。それなのに、戻ってきた。しかも以前より強く。以前より眩しく。そして―――優の視線まで奪って。かつて、その場所にいたのは自分だった。脚光。賞賛。特別扱い。それが当たり前だった。努力して手に入れたのではない。気づけば、そこに立っていた。誰もが自分を中心に世界を回してくれる。そんな錯覚すら抱いていた。そして、その世界の中に――藤崎優がいた。優は、最初に自分を見つけた男だった。まだ無名で、オーディションに落ち続けていた頃。帰り道の電車で、悔しさを噛み殺していたあの夜のことを、沙羅は今でもはっきり覚えている。そのとき優は言ったのだ。「君は売れる」迷いのない声だった。慰めではなく、確信に満ちた響き。その一言で、世界が変わった。景色の色が変わり、未来が輪郭を持ち始めた。――この人は、私を本当に見ている。自分の価値を、自分より先に見つけてくれた人。だから、気づけば愛していた。雪城沙羅は、藤崎優を本気で愛していた。今でも。そこだけは、何年経っても変わらなかった。けれど――。優の視線が変わった日を、沙羅は忘れていない。自分の方を見ることは、もうないのだと悟った日を。あの日。優が初めて、久遠ひかるの芝居を見た日。モニターを覗き込む優の横顔は、まるで少年
撮影初日。スタジオの空気は、異様だった。誰も大声を出さない。スタッフ同士の会話も、必要最低限。まるで嵐の前の海のような静けさが広がっている。理由は、全員が分かっていた。今日、藤崎優と雪城沙羅が、本格的にぶつかる。助監督が小声で呟いた。「現場の温度……低すぎません?」ベテランの照明技師が苦笑する。「違うな。これは低いんじゃない」少し間を置き、言った。「張り詰めてるんだよ」遠くで扉が開く音。視線が一斉に向く。雪城沙羅だった。白ではなく、黒のパンツスーツ。長い髪を後ろで一つに束ねている。一歩、また一歩。ヒールの音だけが響く。その姿は、まるで戦場に現れた女王。若いスタッフが思わず息を飲む。「……オーラが違うな」沙羅は誰にも視線を向けない。ただ真っ直ぐ、セットへ向かう。すでに役に入っている。けれど、沙羅の胸の奥には、昨夜から消えないものがあった。――藤崎優との濃厚なラブシーン。あの台本を読んだときに感じた動揺を、沙羅は誰にも見せなかった。見せるわけにはいかなかった。私は女王。藤崎優にいまだ心を乱されているなど、誰にも知られてはいけない。まして、ひかるには絶対に知られてはいけない。沙羅は、自分から優を奪い返すつもりだった。優を弄び、昔と同じように自分の魅力に抗えなくさせる。そう思っていた。――私が優を追い詰める。そのとき、反対側の扉が開いた。藤崎優。ざわめきが、さらに小さく広がる。復帰してまだ日が浅い。だが現場の誰もが理解していた。この男、以前より、遥かに恐ろしい。優はゆっくり歩いてくると、監督に軽く会釈した。無駄な挨拶はしない。それだけで分かる。完全にスイッチが入っている。そして優は、沙羅を見る。ほんの一瞬。それだけだった。だが沙羅には分かった。――見ている、自分のことを。そして、何を考えているのかも分からない。五年前なら、もっと分かった。夫婦だった頃なら、視線だけで互いの感情が読めた。だが今の優は違う。感情を見せない。それが、かえって恐ろしかった。沙羅と優。距離、五メートル。視線がぶつかる。火花は散らない。だが。空気が震えた。先に口を開いたのは沙羅だった。「久しぶりね」穏やかな声。だが温度はない。優も淡々と返す。「ああ」それだけ。
その知らせは、一本の電話から始まった。雪城沙羅は、自宅のリビングで台本を読んでいた。磨き上げられた大理石の床。大きな窓の外には夜景が広がっている。静寂。ページをめくる指先だけが動く。そのとき、スマートフォンが震えた。画面にはマネージャーの名前。沙羅は視線を落としたまま電話を取る。「……何?」『沙羅さん、大変です!!』声が硬い。それだけで、普通の連絡ではないと分かる。『脚本が改稿されました』沙羅の指が止まる。「改稿?」『はい……第3話です』胸の奥に、小さな違和感が生まれる。だが、まだ表情は崩さない。「それで?」数秒の沈黙。そして――『藤崎優さんとの共演で……ラブシーンが追加されました』世界が、止まった。音が消える。空気が凍る。「……は?」自分でも驚くほど、かすれた声だった。電話の向こうで、マネージャーが息を飲む気配がする。『しかも……かなり濃厚な演出です』沙羅は何も言わない。言えない。視線だけが、ゆっくり台本へ落ちる。震えている。自分の指が。――あり得ない。藤崎優は、自分の元夫だ。かつて誰よりも近くにいた男。同じ家で暮らし、同じベッドで眠り、互いの体温まで知っている。そして……自分を捨てた男。その相手と、ラブシーン?しかも、濃厚な――。「断るわ」即答だった。それは女優としての判断ではなかった。これ以上、自分の感情を揺さぶられたくない。何より、人前でだけは絶対に知られたくなかった。自分が今も優を愛しているなど。雪城沙羅が、藤崎優に未練を残している。そんな噂を立てられることだけは、耐えられない。女王は、誰かを追いかけたりしない。捨てられた女の顔など、絶対に見せない。まして、ひかるにだけは、絶対に知られてはいけない。―――私の方がずっと上だということを、思い知らせるまでは。だが。マネージャーの声がさらに沈む。『それが……局が首を縦に振りません』「は?」『スポンサーが藤崎優の復帰に合わせて、大幅に出資を増やしました。条件はただ一つ……』沙羅の喉が乾く。『“二人の共演を最大限に活かすこと”だそうです』沈黙。長い沈黙。そして沙羅は、静かに電話を切った。リビングに、再び静寂が戻る。だが先ほどとは違う。空気が重い。胸の奥だけが、異様な速さで脈打ってい
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直







